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  • 猪苗代湖の水位を調整する「十六橋水門」。福島県会津若松市猪苗代町にまたがる。安積疏水の開削に伴い、疏水とは反対側に流れ出る日橋川に設置された=2011年11月

 

  • 猪苗代湖の水位を調整する「十六橋水門」。福島県会津若松市と猪苗代町にまたがる。安積疏水の開削に伴い、疏水とは反対側に流れ出る日橋川に設置された=2011年11月

 

[双頭の電源地 新潟・福島 背負った宿命]5 
地方への進出 送電技術が突破口に

 電力業界で「凧揚げ地帯方式」という言葉がある。電力会社が供給エリア外の地方に発電所を建設することだ。

 電源地を「凧」に、電力消費地への送電線を「凧糸」に例える。原発でこの方式を採るのは東京電力だけだ。

 「凧揚げ」を可能としたのは大正時代、水力発電で実現した長距離送電の技術革新である。後の原発の地方進出にも不可欠な要素となった。

 だが一方で、長距離送電技術は、電源地の地方と消費地の中央との間に別の側面を生じさせてもきた。

 本県の前知事・平山征夫(67)は都知事・石原慎太郎(79)の発言をよく覚えている。2002年、東京であったエネルギー関連シンポジウムでのことだ。

 本県からの電力で山手線が動いているとし、地方の電源地が東京を支えていることを消費地も理解してほしいと語った平山。これに対し、石原は「そんなことを言うと、夜はクマしか通らないような道路はどこの金でできているんだとなる」と反論。東京は国の税収の3割以上を納めているとし、地方での使われ方に疑問を呈した。

 平山は今も「消費地も国も原発立地地域の苦労を理解していない」と話す。

 意識の隔たりをもたらしたともいえる送電の技術革新。1914年、福島県の猪苗代湖から流れ出る川の水力発電所で起こした電気が、約200キロ離れた東京・田端に送られたことに象徴される。京浜地域の重化学工業化などで電力需要が急速に伸びていた時期。世界トップレベルの長距離高圧送電だった。

 この事業を行った「猪苗代水力電気」は、三菱財閥を中心にした東京の資本家によって設立された会社だった。23年に東京電灯(東電の前身)と合併し、猪苗代湖は東電の電源地となる。

 電気事業史に詳しい一橋大大学院教授の橘川武郎(60)は「天然のダム湖なので需要に合わせ発電量を調整できるいい電源だった。相当な値段で買った」と解説する。

 その後を追うように東京の電源地となったのが本県の中津川(津南町)だ。

 16年、最初に水利権を得たのは、後に初代民選知事となる岡田正平。当時は電力会社「魚沼水力電気」(十日町市)の社長だった。

 岡田は県内の資本家と共に大規模な発電所の建設を計画。地元に加え東京方面への供給も計画した。だが結局、開発に必要な水利権を手放し、電力事業からは撤退した。

 中津川の発電所は22年、岡田の計画とは別の形で実現する。設置したのは「信越電力」で、東京電灯関連で8割の株を所有。電気のほぼ全てを東京方面へ送った。

 「凧揚げ」方式は、中央の資本が中央のために水力発電を実現する手段となった。(敬称略)

■原子力立地、水力契機に 東電明治から近県で開発

 国内で唯一、原発建設に「凧揚げ地帯方式」を採用した東京電力。電源地を供給区域外の地方に求めたのは、なぜか。前身である東京電灯の歴史から理由が見て取れる。

 日本初の電力会社として、明治時代中期の1883年に設立された東京電灯。草創期の事業は地場産業ともいえる規模だった。発電所を最初に設けたのは都心の日本橋。火力で発電し、数百メートル圏内の銀行などへ送った。

 草創期の電気事業に詳しい慶応大名誉教授の吉田正樹(69)は「当時の技術ではあまり遠くに送れず、需要地の近くに発電所を置いた」と解説する。

 しかし、人口集中と、産業の需要増加に伴い発電施設は大規模化を迫られ、都心部での立地は困難となる。いち早く近県での水力開発を目指したのが明治後期の東京電灯社長・佐竹作太郎だった。

 佐竹は山梨県の銀行頭取から東京電灯役員に転身。社長に就任した1899年ごろ、山梨県の桂川水系の水力開発に必要な水利権を自費で取得し、会社に譲渡した。

 東京電灯がこの水系に「駒橋発電所」を設置したことで、送電距離は従来の倍以上に延びた。長距離送電時代の幕が開けた。

   ■    ■

 佐竹の社長就任の年には、東京電灯が「郡山の実験」と呼んだ長距離送電が福島県で行われている。猪苗代湖から引いた安積疏水に設置した沼上発電所。郡山市まで23キロの送電を成功させ、日本の長距離送電の先駆けといわれた。

 長距離化の背景には、米国を中心に実用化した「交流」という発送電方式がある。

 東京電灯が当初、採用していたのは「直流」方式だった。交流は直流に比べ、電圧を上げることで、電流が送電線を通る際に熱として失われる送電ロスを大幅に抑えられる。1890年代初頭には発送電方式の主流を占めていた。

 沼上発電所の主要設備は全て米国製で、設備概要には、ゼネラル・エレクトリック(GE)、ウェスチングハウス(WH)といった米国の会社名が並んだ。GE、WHは後に原発メーカーとなる。

 吉田は「米メーカーが日本の電力会社に技術革新の恩恵を与えてきた。それが原子力の時代まで続いている」とし、電力事業における日米の結び付きの強さを挙げる。

   ■    ■

 技術革新に伴う水力の「凧揚げ」方式化は、火力、原子力へ受け継がれていく。

 火力では1980年以降、福島県の太平洋岸の広野町に5基が建設され、相次いで運転を開始。原発が建設されたのも、水力開発時代から東京と深いつながりを持つ新潟、福島だった。

 その福島の電源地が今、東電福島第1原発事故により大きな影響を受けている。地元・双葉町の農業、木幡敏郎(62)は埼玉県の避難先でやるせなさを打ち明ける。

 「都会に住む電力の消費者にとってはいいことしかなく、負担は全て電源地が負うというのはおかしい」

 電源地と消費地とを隔てる溝の大きさを浮き彫りにした東日本大震災。それは日本の電力システムが抱える問題点も鮮明にした。(敬称略)

◎猪苗代 大久保利通が着目

 福島県のほぼ中央に位置する猪苗代湖は、天然の貯水池として明治時代以降、農業用水をはじめ発電用水にも利用されてきた。その豊かな水の価値に着目したのが維新の元勲、大久保利通(1830~78年)だった。

 1878年、内務卿の大久保は猪苗代湖の水を東の郡山地域に農業用水として引く安積疏水の開削を太政大臣三条実美(1837~91年)に建議。殖産興業、失業士族の救済を目的としていた。大久保の死後、国営事業として行われ、82年に通水した。

 大久保は、新発田市出身の大実業家で、東京電灯(東京電力の前身)設立発起人の大倉喜八郎と海外で面会している。

 大倉は72年、自費で欧米への経済視察に出発。翌年のパリ滞在時、岩倉具視(1825~83年)を全権大使とする岩倉使節団副使の大久保らにホテルへ呼び出され、視察状況を尋ねられている。

 大倉は欧米視察を機に明治政府の多くの要人と交流を深めた。特に伊藤博文(1841~1909年)とは親しかった。後に初代内閣総理大臣を務める伊藤は大久保から内務卿を継ぎ、安積疏水の起工式にも参列している。

 安積疏水で初めて電気事業を行ったのは「郡山絹糸紡績」だった。

 その後、東京方面への供給を目的に設立された「猪苗代水力電気」は、猪苗代湖から西へ流れ出る阿賀野川水系の日橋川沿いに猪苗代第1、第2発電所を建設。同社の供給先は主に東京電灯で、新潟市などを供給区域とした「新潟水力電気」にも送っていた。

 現在、猪苗代湖周辺に東京電力が持つ水力発電所は15カ所で発電能力は計約35万4千キロワット。

<東電の管外発電施設> 東京電力は本県にある柏崎刈羽(7基)と、福島第1(6基)、第2(4基)の計17基の原発を有する。原発のほか、水力、火力を含め供給区域外に多数の発電所が建設されている。火力では福島県に広野火力発電所(5基)の1カ所。水力は長野県に最も多くあり、高瀬川など30カ所。福島県には猪苗代など15カ所、本県には中津川など7カ所ある。一方、一部の他電力会社でも水力では供給区域外に発電所を設けている。関西電力が設置する福井県原発  は同社の供給区域内にある。                                               

 

大久保利通

幕末明治初期の政治家

天保元年8月10日(1830年9月26日)-明治11年5月14日(1878年5月14日)

西郷隆盛とともに、薩摩藩の中心人物。

子孫に、子の牧野伸顕(外務官僚→宮臣)・孫の大久保利謙(日本近代史家)大久保利春(ロッキード事件で有罪)・曾孫の吉田健一(作家)、大久保利晃(放射線影響研究所理事長、前産業医科大学長)、武見太郎(日本医師会会長)・玄孫の牧野力(通産事務次官)、麻生太郎衆議院議員)と男系・女系に問わず秀才が多いことでも知られる。は同社の供給区域内にある。

 
【原発危機】

東北地方における電気事業の展開と工業の発達
         一1950年以前の場合を主として一http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/1350/1/6-84.pdf